私はきっと、生きる事にあまり向いている人間ではないのです。
記憶力、学習能力などにおいて「平均」まで持っていくのに人の数倍も努力が必要でした。
だから、どこにいっても私を知る人は「頑張ってる人」という感想を抱いていると思います。
別にそのことに関して特に不満を持ったことはありませんでした。
努力は嫌いではありませんでしたし、努力をする才能は持ち合わせていたので、天は二物は与えないから私からはこの才能のかわりにスペックから色々引かれたんだろうなくらいでしょうか。
まあ、そんな人もいるんだろうなーくらいで、すごく他人事のように考えていました。
でもほかの人は何てこと無いようにやっていることに努力が必要って結構めんどくさい。ここで腐ってもいいけどなあと思っていた私が頑張るためには理由が必要でした。
考えた末、自分が一番好きだったピアノを選ぶことで自分を納得させることにしました。
そこで覚悟を決めます。ピアノを弾くためならば私はどんな理不尽でも飲み込んで邁進すると、私に誓いました。
頑張っている自分をアピールすると、勉強以外を取り上げられることは目に見えていたので、「この子ならば大丈夫」と思ってもらうことに全力を尽くしました。
そう思わせることは成功しましたが、それができるならとほかにも色々持ってこられることは予想外でした。負担は増えましたが、まあピアノが弾けるならと安請け合いしていくうちに気づいてしまいます。
無理に努力を重ねると自分を消費している。
気にしないことにしました。それで死んだらそれまで。
どうしてでしょうか。生きる事に執着していなくて、どこか自分にとても冷たかったのは物心ついてからずっとです。
きっと、いい子でいることが愛される条件だった環境だったからかなと思います。形だけの家族で愛しているポーズだけで自分に注がれているのが愛ではない何かだったからだと思います。
親の出した選択肢の中で一番自分がすきそうなものを選ぶ人生は果てしなくつまらないものでした。
幸せなんて自分は一生経験しないまま生きると信じて疑わなかったので。
所詮自分の人生なんてこんなもの。私のスローガンでした。
そんな私が今幸せをつかみたいと足掻いている。
昔の私は必死になっちゃってとあざ笑うでしょう。
笑うがいいさ。君の諦めたもの私は今全て持っている。
まだ望んでいいって教えてもらったんだからみっともなくても私は頑張るよ。
君が頑張り続けてくれたから、私は今までもこれからも頑張れる。
ありがとう。